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2008年12月 アーカイブ

2008年12月01日

日本政府は明治維新の攘夷運動

日本政府は明治維新の攘夷運動の教訓から幕末の佐久間象山や吉田松陰ら国学者らが唱えていた「夷をもって夷を征す(欧米の力を取り入れ殖民地になるのを防ぐ」という方針を国家づくりの基礎として、盛んに欧州の技術や文化を取り入れ近代化を推し進めていた。同時に東アジアにおけるロシアをはじめとする欧米列強による植民地化の流れを防ぐことで自国の安全と安定を図ろうと考えた日本政府は、朝鮮半島に対し、西洋に対抗するには、東洋の近代化と貿易が重要であることを訴え、朝鮮との交渉を始めた。しかし、当時の朝鮮は鎖国状態で、周辺の社会情勢について詳しくなく、日本で起きた革命の意図もあまり理解していなかった。当時、政治の実権を握っていた国王高宗の父である大院君は対外政策では欧米諸国の侵入に対し激しく反対し、開国した日本も洋賊であるとして、国交の樹立に反対し、交渉は一向に進まなかった。

こうした状況下の1873年、明治政府はその打開策として、まずは西郷隆盛を中心とする使節を派遣することを閣議決定した。

しかし、当時西洋の政治を学ぶために欧米各国を視察していた岩倉使節団の岩倉具視・大久保利通達が、それを知って急いで帰国した。繁栄していた欧米列強を目の当たりにした、岩倉・大久保らをはじめ、太政大臣の三条実美は、まずは国力充実を図ることが先として、万が一朝鮮と交戦状態になれば本来の目的である東アジアの大同団結を損ねるのみならず莫大な戦費が必要となること等も鑑みこの決定に反対し、決定が取り消された。これを明治六年政変(征韓論政変)といい、西郷達は下野し、西南戦争が起きる要因となった。また大久保達はこれ以降、政治の実権を握る事になったが、いわゆる「征韓論」に対しては大久保らも、交渉決裂に際して朝鮮半島での武力行使の方針自体には反対ではなかった。

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2008年12月07日

連合国から課せられた膨大な賠償金

連合国から課せられた膨大な賠償金や一方的な軍備制限、ポーランドへの領土の割譲等のヴェルサイユ条約への軍上層部の反発は大きく、参謀本部機能を「兵務局」の名称に隠して存続させ、将来の拡充を見越して、下士官に将校レベル教育を行い、赤軍の協力を得てソ連国内で秘密裏に航空機、戦車、毒ガス等の訓練施設を設け、再軍備への準備を怠らなかった。事実、ヒトラーがヴェルサイユ条約軍備制限条項を破棄し再軍備を宣言した時、短期間のうちに50万人から成る36個師団の陸軍ならびに空軍を保有することができた。

一般的にはヒトラーの総統就任後急激に再軍備を開始したという見方が強いが、安全保障を損なうことは出来ないと考えたヴァイマール政府は戦闘機を旅客機、戦車を農業用トラクターと称すなどあの手この手で軍備を整え技術を高めていった。この結果世界初のジェット戦闘機メッサーシュミットMe262、初のミサイル兵器V2ロケット、ティーガーIIなど当時としては画期的な兵器が数多く生み出されることとなる。

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2008年12月09日

砲兵

砲兵(ほうへい、英:artillery)とは、戦闘において大砲・ミサイルなど用いて戦闘支援を行う兵科の一種である。自衛隊用語では特科という。

砲兵が行う砲撃は戦闘において非常に大きな威力を持っており、敵のあらゆる戦闘力を破壊することができる。しかも前線から少なくとも数キロメートルの距離をおいた場所から射撃を行うことができるため、直接的な反撃を受ける危険性は低い。装備する兵器は榴弾砲やロケット砲、ミサイルなど、比較的長い射程を持つもので、これらは購入・整備にかかる費用が非常に高いため、優秀な砲兵部隊を保有しているのは主に先進国に限られている。

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2008年12月13日

蓮如の登場

親鸞の死後、親鸞の曾孫にあたる覚如(1270年-1351年)は、三代伝持等を根拠として親鸞の祖廟継承の正当性を主張し、本願寺(別名「大谷本願寺」)を建てて本願寺三世と称した。こうした動きに対し、親鸞の関東における門弟の系譜を継ぐ佛光寺七世の了源(1295年-1336年)など他の法脈は、佛光寺や専修寺などを根拠地として、次第に本願寺に対抗的な立場を取ることになった。

この頃の浄土真宗は、佛光寺や専修寺において活発な布教活動が行われ多くの信者を得たが、本願寺は八世蓮如の登場までは、天台宗の末寺として存続していたに過ぎなかった。

蓮如の登場?石山合戦
室町時代の後期に登場した本願寺八世の蓮如(1415年-1499年)は、当時の民衆の成長を背景に講と呼ばれる組織を築き、人々が平等に教えを聴き団結できる場を提供し、また親鸞の教えを安易な言葉で述べた『御文(御文章)』を著作し、一般に広く教化した。この事により本願寺は急速に発展・拡大し、一向宗と呼ばれるようになった(逆にこの他の真宗各派は衰退することとなる)。

この講のよる信者の団結力は、蓮如の制止にも拘わらず施政者(大名など)に向かった。中世末の複雑な支配権の並存する体制に不満を持つ村々に国人・土豪が真宗に改宗することで加わり、「一向一揆」と呼ばれる一郡や一国の一向宗徒が一つに団結した一揆が各地で起こるようになる。そのため、この後に加賀の例で記述するような大名に対する反乱が各地で頻発し、徳川家康・上杉謙信など多数の大名が一向宗の禁教令を出した。中でも、薩摩の島津氏は明治時代まで禁教令を継続したため、南九州の真宗信者は講を組織し秘かに山中の洞窟で信仰を守った(かくれ念仏)。

やがて応仁の乱(1467年-1477年)が起こり、当時越前国にあった本願寺の根拠吉崎御坊の北、加賀国で東軍・西軍に分かれての内乱が生じると、専修寺派の門徒が西軍に与した富樫幸千代に味方したのに対し、本願寺派の門徒は越前の大名朝倉孝景の仲介で、文明6年(1474年)、加賀を追い出された前守護で幸千代の兄である東軍の富樫政親に味方して幸千代を追い出した(つまり、加賀の一向一揆は、最初は真宗内の勢力争いでもあった)。しかしその後、本願寺門徒と富樫政親は対立するようになり、長享2年(1488年)、政親が一向宗討伐軍を差し向けると、結局政親を自刃に追い込んで自治を行うまでになった(ただし富樫氏一族の富樫正高は一向一揆に同情的で、守護大名として象徴的に居座っている)。その後、門徒の矛先は朝倉氏に奪われていた吉崎の道場奪回に向けられ、北陸全土から狩り出された門徒が何度も朝倉氏と決戦している。

一方、畿内では、吉崎より移った蓮如が文明14年(1482年)に建立した、京都山科本願寺が本拠地であったが、その勢威を恐れた細川晴元は日蓮宗徒と結び、天文元年(1532年)8月に山科本願寺を焼き討ちした(真宗では「天文の錯乱」、日蓮宗では「天文法華の乱」)。これにより本拠地を失った本願寺は、蓮如がその最晩年に建立し(明応5年、1496年)居住した大坂石山の坊舎の地に本拠地を移した(石山本願寺)。これ以後、大坂の地は、城郭にも匹敵する本願寺の伽藍とその周辺に形成された寺内町を中心に大きく発展し、その脅威は時の権力者たちに恐れられた。

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2008年12月27日

戦闘機・攻撃機

主に対戦車戦闘において使用される。基本となる誘導方法はセミアクティブレーザー誘導で、TOWのように誘導にワイヤを用いないために飛翔速度が速く、着弾所用時間が短いため、敵に回避、反撃する機会を与えることなく攻撃できる。レーザー発信部とミサイル発射母機を別々に設置することもでき、改良型のB型およびC型では赤外線画像誘導も可能。弾頭を対艦攻撃用に変更した物は、スウェーデン軍にRBS17の名称で採用された。

開発は1971年に開始され、1985年から実戦配備されている。

K型以降はヘルファイア IIとも呼ばれ、レーザー関係の機能が改良されている。さらに改良されたL型のロングボウ・ヘルファイア・モジュラー・ミサイル(英: Longbow Hellfire Modular Missile)、はロングボウ・ヘルファイアとも通称され、ミリ波レーダーによるアクティブレーダー誘導に対応している。

初期のバージョンのヘルファイアは、標的へのレーザー照射など継続的な誘導を必要とするためファイア・アンド・フォーゲット(Fire-and-Forget、撃ちっ放し)性能は持っていない。AGM-114L ロングボウ・ヘルファイアは発射後の誘導を必要とせず、ランチャー(発射器)と標的間に射線が形成されていなくても撃つことができ、撃ちっ放し性能を獲得している。

ヘルファイア、マーベリック空対地ミサイル、空中発射TOWミサイルは、2010年までに統合共通ミサイルJCM (Joint Common Missile)に置き換えられる計画があったが、これは2005年1月時点で中止され、ヘルファイアの改良と、国外への広範な販売は継続的に進められている。

1991年1月17日に始まった、イラクにおける湾岸戦争の「砂漠の嵐」作戦の序盤、8機のAH-64アパッチが、ヘルファイアとハイドラ70ロケット弾を使用し、二つのイラク軍早期警戒・地上管制レーダーサイトを破壊した。ジャスト・コース作戦でも使用され、7つの目標を破壊することに成功している。 2002年の初期以降、MQ-1 プレデター無人偵察機からも発射されている。アフガニスタンに潜伏していたオサマ・ビンラディンに対して発射されたほか(暗殺未遂)、ターリバーン幹部の乗った車両に対しても発射されている。

ヘルファイアは、2003年からのイラク戦争でも大量に実戦使用されている。

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