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日清戦争に至るまで500年に渡り

日清戦争に至るまで500年に渡り、李氏朝鮮は中華王朝たる明および清の冊封体制の中にあり、中華王朝に事大の礼をつくしていた。朝鮮の君主は中華王朝の皇帝を世界でただひとりの天子として敬い、皇帝に対する朝貢や、朝鮮に対する使節の歓待を礼を尽くして行い、「東方礼儀之国」と呼ばれた。このような思想を朝鮮の人々に浸透させるイデオロギーとして儒教が活用され、儒教の本場として中華王朝には敬意が払われた。とくに日本軍の侵攻に際して明が援軍を出して助けたことは「再造の恩」と呼ばれ、17世紀には実力で屈服させられている清よりも恩のある明を敬うべきとする議論がなされる。事実、明から下賜された諡号は公式記録に残しているが、清に恭順した16代の仁祖以降は清から下賜された諡号を外交文書を除き、朝鮮王朝実録を始めとする全ての公文書から抹消し国内では隠していた[2]。
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事大主義をとっていた李氏朝鮮では、中華王朝の人間は例え犯罪者でも裁くことができず、本国へ丁寧に輸送すべきものとされていた[3]。そのため後期倭寇最盛期には明人倭寇を討ち取ってしまい処罰される者が出るほどであった[4]。

朝鮮が朝貢していた明や清の皇帝からはしばしば使節が派遣されるが、このとき朝鮮王みずからが皇帝の勅使を歓待して、皇帝に臣従する意を確認する儀礼が行われた。この儀礼のために漢城の郊外につくられたのが慕華館・迎恩門であり、国王は使節が漢城に至ると慕華館で出迎えて礼を尽くす慣わしであった。後に李氏朝鮮と清の冊封関係が終わると、慕華館は独立館となり、迎恩門は破壊された(後述)。

中国以外の国との関係
中国以外の国や民族に対しては、自身を中華世界の上国として位置付け、交易や政治関係において朝鮮国王への服従を要求する擬似朝貢体制をとった。明が滅び清が興ると中原の中華文明は滅んだとみて、朝鮮が中華文明の正統な継承者だと考えるようになった。いわゆる小中華思想である。

南の日本人に対しては、倭寇を防ぐために、交易を認めた者も倭館と呼ばれる居留地への居住を義務付け、きびしく取り締まった。倭館ははじめ富山浦(釜山)、乃而浦(鎮海)、塩浦(蔚山)の三浦にあり、三浦倭館と呼ばれたが、1509年に起こった三浦の乱やその後の倭寇事件で釜山一港に限定された。また1592年に勃発した文禄・慶長の役によって日朝の国交は断絶したが、財政の存立を朝鮮貿易に依存していた対馬藩は国書を偽造するなどして(柳川一件)1607年日朝の国交が回復し、釜山に倭館新設も認められた。日本使節のソウル上京は認められなかったが、将軍の代替わりを祝賀する朝鮮通信使が江戸を訪問し、対馬藩による釜山貿易も江戸時代を通じて続いた。朝鮮国王と日本の将軍の関係は、室町時代に足利氏が明から日本国王として冊封されたこともありおおむね対等として扱われたが、対馬藩主の宗氏は朝鮮に対して朝貢に近い服属儀礼を要求され、釜山の倭館では国王に対する拝礼の儀式が行われていた。

また、半島の北の満州(マンチュリア)に住んでいた女真人とは紛争が繰り返されるとともに交易も行われていたが、彼らは日本人以上に組織化されていなかったこともあり、より朝貢に近い儀礼関係を結ばせていた。しかし、女真は同時に明に対しても服属していたため、朝鮮が女真に対して朝貢させていたことを明が咎めたこともある。朝鮮政府は女真を「胡」だとして「オランケ」と呼び、蔑視の対象にしていた。それだけに、17世紀に女真の建てた後金(のち清)に武力で服属させられ、さらに清に明が滅ぼされたことは朝鮮の思想界に大きな衝撃と影響を残すことになり、小中華思想となって表れた。

このような状況であったため、西欧人に対する反発はより強く、中国と日本、それに琉球王国などを除けば長く鎖国状態であった。朝鮮にとっては、西洋人は「禽獣」であって人間としても扱われなかった。

近代の外圧
19世紀末期になると、朝鮮は西洋諸国や日本からの介入を受けるようになるが、とりわけ日本の干渉は日清戦争・日露戦争を通じて随一のものとなり、最終的に朝鮮を植民地化するに至る。朝鮮は、西洋化を推し進めた日本人のことを「禽獣の服を着、禽獣の声を真似する」とまで侮蔑するようになった。

日清戦争において日本が清を朝鮮から駆逐すると、日本と清の間で締結された下関条約によって朝鮮と清との伝統的宗属関係は終りを告げた。その象徴としての迎恩門も破壊され、代わりに独立門が建てられた。朝鮮は日本の強い影響下に置かれるが、みずから皇帝を称する大韓帝国に国号を改めるなど自主独立の道を探る努力も続けられた。しかしその後も日本の強い干渉や日露間の対立などに巻き込まれ、最終的に1910年に朝鮮は日本に併合され植民地となった。

社会階層
朝鮮の社会は、中国式の戸籍制度によって社会階層は細分されていた。

戸籍上の身分は、当初は良民と賤民(奴婢・白丁)に大きく分かれていただけであったが、良民の中でも科挙を受けられる余裕を持つ階級とそうでない階級に次第に分化していった。その結果、良民は両班(科挙官僚を輩出する階層)・中人(技術職を輩出する階層)・常人(一般の農民)と言う3つの階層に細分化される。

儒教を尊び、仏教を弾圧していたため、僧侶や工人、商人などは常人より低い地位に置かれていた。さらにその下層にある賤民階層は、李氏朝鮮初期の比率で人口の30%程度ほどを占めた。

社会階層は完全に固定されていたわけではなく、例えば中人から両班に上昇する家族もあったことが分かっている。事実、19世紀後半には両班の占める割合が70%に達した地域もあった。

民族構成
民族面では、建国の時点で朝鮮国内の北部にかなりの数の女真人が住んでいたが、李氏朝鮮王朝は彼等を国民として正当に扱うことはなく、国外の女真と同じように激しい蔑視や差別、迫害の対象であった。彼らは朝鮮政府と国外の女真との関係が悪化すると追放されることもあったが、次第に朝鮮人へ同化させられていったと思われ、この過程に於ける混血や言語的影響については詳しいことは分かっていない。朝鮮末には朝鮮民族の均質化が進み、19世紀には逆に朝鮮民族が国境を越えて清やロシアの領域に移住していった。このような民族均質化の結果、王朝末期から現在にかけての朝鮮・韓国社会で少数派の民族コミュニティを形成しているのは華僑のみとなっている。なお現在の北朝鮮はしばしばナショナリズム高揚のため、「単一民族国家」を強調しており、韓国でも保守派、民族主義者を中心に根強く「単一民族国家」という意識が残存している。

経済
朝鮮半島では、李氏朝鮮王朝の時代になるとそれまで進展していた経済の発展にきわめて強い規制がかかった。朝鮮王朝のイデオロギーである儒教主義では商人は極めて卑しいものとされたためであった。そのため本格的な貨幣制度がなかなか定着しなかった。李氏朝鮮王朝も何度か貨幣制度の導入を行ったものの、商人を卑しむ儒教イデオロギーを無傷で温存したため根本的な解決はできなかった。

第4代世宗の時代に入り、金属貨幣である「朝鮮通宝」が発行され、本格的な貨幣経済への重要な一歩を示したが、流通量は少なく、秀吉の侵略や清の侵攻で国内の産業基盤がズタズタにされたことで意図したほどの効果は上がらなかった。17世紀後半に至って「朝鮮通宝」の代わりに「常平通宝」を鋳造し、再び貨幣経済を振興させようとするが、金銀などを使用した高額貨幣の流通は余りにも微少だった。また造幣を行う役人によって銅が横流しされ、その分を鉛で補っていたために市中でも貨幣に対する信頼度は低かった。

とはいえこのような制約の中でも李氏朝鮮王朝後期の18世紀、19世紀には商人階級の勃興と富の蓄積、また両班の地位を金で購入することなどが広まり、朝鮮の商業は大きな進歩を見せた。しかしその後も支配者層の儒教イデオロギーに基づく介入が相次ぎ、また19世紀初期の飢饉や反動政治などもあって、朝鮮における商業の発展は非常に障害が多かった。その発展度は日本、中国に遠く及ばなかった。李氏朝鮮末期に至っても物々交換は完全になくなったわけではなく、村落部を中心に残存していた。李氏朝鮮末期に至り西洋、中国、日本などの銀貨が流通し始める事によって、交易を行う釜山などを中心とした高額貨幣の流通量が増大するが、それまでは極端な場合100円銀貨に相当する貨幣を運搬するのに馬1頭を使わなければならないこともあるなど、非常に不便を強いられていた。工業においても商業と同様、人を雇って分業で何かを生産するような企業は全くの未発達で個人や家族での活動に限られていた。

李氏朝鮮時代の交易は、中国との朝貢貿易、対馬を介した日本との交易、琉球との交易が中心であった。中国の朝貢貿易の主力は朝鮮人参、貂皮、海獺皮、昆布、日本から輸入した銀などであり、代わりに塩・生糸・絹織物などを輸入していた。対馬との交易は、中国から輸入した生糸や絹織物、木綿、朝鮮人参、穀類などを輸出し、代わりに銀や銅を大量に輸入していた。対馬との貿易のピークは18世紀中頃であり、金額ベースで、日清・日蘭貿易をしのいでいたと言われる。しかし、日本銀の生産量が激減すると江戸幕府は中国への銀輸出を規制すると共に自給自足政策を奨励したため、17世紀後半には木綿は自給できるようになり、また生糸、朝鮮人参に関しては18世紀後半に自給体制を整えたために朝鮮から日本への輸出品目から外れた。また、1750年には朝鮮への銀輸出禁止令が江戸幕府から発布され、対馬との間の交易は以後限定的なものとなった。

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2009年01月28日 13:48に投稿されたエントリーのページです。

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